「リズと青い鳥」鑑賞用メモ(ネタバレ)

  • 希美は他人への甘え方がよく分からない人なのではないか、という線で見ると視界がクリアになるような気がする。
  • みぞれの言うことは、だいたいはみぞれの思っていることとして捉えて問題がなさそう。
  • 希美の言うことは本音と嘘が入り混じり過ぎていて、額面通りに受け取りにくい。足癖はたぶん信用していい。
  • 「リズ」と「青い鳥」がみぞれと希美のどちらにそれぞれ当てはまるのか、を考えてもあまりスッキリした結論は出ない。それよりも重要なのは、みぞれと希美がお互いをどのように当てはめて考えているのか、だ。
  • みぞれの方は、少なくとも劇中ではそんなに複雑には描かれていなくて、最初は自分をリズに当てはめていたけれど、後で自分を青い鳥に当てはめなおしている。
  • 問題は希美がどう考えているか。これがこの映画のキーポイントになる。自分とみぞれの関係を「リズと青い鳥」になぞらえていること自体は冒頭で言及されているが、それがどういうなぞらえ方なのか、が難しい。
  • 重要な点として、二人がお互いの関係性に気付くシーンをきちんと見ると、希美自身は「みぞれが」「青い鳥」「でも今は」としか言っていない。編集の妙で錯覚しやすい箇所だが、みぞれをリズだと思っていたけど今は違う、とは言っていない(言っていた可能性はある)。発せられた言葉だけをそのまま単純につなげると、みぞれを青い鳥だと思っていたけど今は違う、と喋っていたことになる。
  • それ以外のシーンでは、エサをあげている点を指して希美がみぞれをリズみたいと言うシーンがある程度で、希美がみぞれをリズに当てはめて考えていることが明確に示されるシーンはおそらくない(と思う)。
  • 希美は後輩にこそ囲まれているものの、その描写は動物に囲まれるリズの姿に似ている。さらに進路周りの話を見るに自分で自分を孤独に追い込みやすいフシがあり、これは自由奔放な青い鳥よりも孤独なリズの方の役回りに近い。いろんなものを黙って抱え込んでいきがちな希美の性格からして、自分の中にあるリズの要素はもともと自覚している可能性が高い。
  • なので、希美は最初自分をリズに(みぞれを青い鳥に)当てはめて考えていたのだけれど、みぞれが考えを変えるのと同じタイミングで、自分を青い鳥に(みぞれをリズに)当てはめなおしている、というのは割と普通の解釈なのではないかと思う。以下はその解釈に沿って書く。
  • この場合、二人は「リズと青い鳥」という一つの作品の中に、それぞれ別の物語を見ている。何しろ、交差する瞬間があるとはいえ、配役が終始正反対なのだから。
  • その象徴的な表現として、希美は「リズと青い鳥」を絵本で読んでいるのに対して、みぞれは文庫で読んでいる点が挙げられる。一つの物語を、二人は別々の角度から見て解釈している。
  • また、二人にとって「リズと青い鳥」の物語の意味が異なることは、みぞれの「又貸しはいけない」という趣旨のセリフからも読み取れる。自分自身で考えて物語を自分の中に取り込むことが、良い演奏に繋がる。まあ、ここはみぞれのセリフというだけでなく、映画制作サイドの観客に対する直接的なメッセージや要望、願望という側面もありそうだ。はいはーいわっかりましたー!
  • ハグシーンにおいて、みぞれは、リズを愛する青い鳥として振る舞う。希美は、リズに突き放される青い鳥として振る舞う。二人はずっとすれ違ったまま。ただ、だからこそ希美は「ありがとう」を何度も言う必要があり、言うたびにニュアンスも違う。
  • 二人の演奏の息が合って終わる話ではない、ということを気にしつつ滝先生のセリフを参照すると、ハグシーンでのすれ違いの様子がより分かりやすい。
  • このこんがらがり具合を踏まえて「ハッピーアイスクリーム」のシーンを見る、というのが映画としてはスッキリする。あとラストシーン以降の妄想も捗る(滝先生GJ)。




  • ここまで書いておいてなんだけど、希美が本当はどう考えてるかなんて結局のところ分かりようがない。それ以前に、希美自身ですら自分の本音がいったい何なのかなんて分からないのかもしれない。やっぱり希美の考えはみぞれと微妙にズレながらもシンクロしていて、二人の考える「リズと青い鳥」の配役は同じだったと解釈しながら見ても、おかしいところはない。
  • グラデーションのようにハッキリしないものとして描こうとしているのではないかと思えるので、どちらがリズでどちらが青い鳥なのかは、観客一人一人が好きなように感じ取るのがベスト、ということなのだろう。
  • 現実の中にあるそういう曖昧さをいかにアニメ映画の中に導入できるのか、が大きなテーマの一つに据えられた作品なんじゃないか。単純なようで複雑なストーリーも、キャラクターデザインを変更したのも、執拗なまでに画面で描かれる些細な感情表現も、繊細な音の演出も、それが目的だとすれば表現として一貫性があるし、かなりの成功を収めているように見える。

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  • (05/06(金) 明治東亰恋伽〜花鏡の幻想曲〜 舞台挨拶付き完成記念上映会)
  • 05/14(土) シンドバッド
  • 05/21(土) 機動戦士ガンダム THE ORIGIN III 暁の蜂起
  • 05/21(土) デュラララ!!×2 結 外伝!? 第19.5話「デュフフフ!!」
  • 05/21(土) 牙狼〈GARO〉 -DIVINE FLAME-
  • 05/21(土) なぜ生きる-蓮如上人と吉崎炎上-

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不明

バケモノの子

この映画の最初のティザーポスターには、「新冒険活劇」という文字が書かれていた。
ポイントは「新」。一体何が「新」しいのか。


この映画は前半と後半で真っ二つに分断されている。
前半、バケモノの世界へと「冒険」することになった九太は、必死に熊徹の真似をしながら修行をする。
しかし、後半で蓮(九太の現実世界での名)はその修行の成果を存分に発揮するわけではない。
不良とのケンカでこそ役に立つが、その後、現実世界での彼の目標は高卒認定試験と設定される。
試験となると、熊徹との修行の日々が役に立つようには思われない。
そこに「冒険活劇」ではない、「新冒険活劇」である所以がある。


バケモノの世界で修行に励む九太は、カラダは成長できても十七太にはなれない。九太は九太のままなのだ。十七歳になった蓮には別の修行が待っている。
多くの十七歳男子にとって、大学受験(もしくは就職)は自分の意思のみではままならない「冒険」となるだろう。
であれば、その年頃の男子に必要なことはお勉強であって、木刀を振り回すことではない。
まさしく修行の旅で九太が熊徹から言われた「机にちょこんと座ってお勉強」こそが必要な修行なのだ。
このことは次のようにも言い換えられる。
冒険する未知の大陸があるわけでもない、活劇をして倒すべき悪役が居るわけでもない。
そんな現代で、木刀を振り回して強くなる「冒険活劇」をすることに意味などあるのだろうか?


この映画が提示している解答はシンプルだ。
それは、「意味なんかテメエで見つけろ」ということ。
とはいえ観客を突き放すだけでは物語にならないので、その具体的な例が九太を通して描かれる。
異世界での修行だけでなく、自意識との戦いだけでなく、
一見無意味としか思えない「冒険」の意味を見出す過程を含めての「新」冒険活劇、なのだ。

冬コミC87

貴サークルは日曜日 東地区 「パ」 ブロック 22aに配置されています。


というわけで
冬コミC87 サークル名「CFL」で、
「2014年アニメ映画全レビュー 」
および、
THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!」 がやろうとしていたことについて考察した本を出します。
よろしくお願いいたします。




3日目(火)東S32ab「前途洋洋だ会」様に委託予定です。