バケモノの子

この映画の最初のティザーポスターには、「新冒険活劇」という文字が書かれていた。
ポイントは「新」。一体何が「新」しいのか。


この映画は前半と後半で真っ二つに分断されている。
前半、バケモノの世界へと「冒険」することになった九太は、必死に熊徹の真似をしながら修行をする。
しかし、後半で蓮(九太の現実世界での名)はその修行の成果を存分に発揮するわけではない。
不良とのケンカでこそ役に立つが、その後、現実世界での彼の目標は高卒認定試験と設定される。
試験となると、熊徹との修行の日々が役に立つようには思われない。
そこに「冒険活劇」ではない、「新冒険活劇」である所以がある。


バケモノの世界で修行に励む九太は、カラダは成長できても十七太にはなれない。九太は九太のままなのだ。十七歳になった蓮には別の修行が待っている。
多くの十七歳男子にとって、大学受験(もしくは就職)は自分の意思のみではままならない「冒険」となるだろう。
であれば、その年頃の男子に必要なことはお勉強であって、木刀を振り回すことではない。
まさしく修行の旅で九太が熊徹から言われた「机にちょこんと座ってお勉強」こそが必要な修行なのだ。
このことは次のようにも言い換えられる。
冒険する未知の大陸があるわけでもない、活劇をして倒すべき悪役が居るわけでもない。
そんな現代で、木刀を振り回して強くなる「冒険活劇」をすることに意味などあるのだろうか?


この映画が提示している解答はシンプルだ。
それは、「意味なんかテメエで見つけろ」ということ。
とはいえ観客を突き放すだけでは物語にならないので、その具体的な例が九太を通して描かれる。
異世界での修行だけでなく、自意識との戦いだけでなく、
一見無意味としか思えない「冒険」の意味を見出す過程を含めての「新」冒険活劇、なのだ。