おおかみこどもの雨と雪 感想

ネタバレなし。


アニメはドキュメンタリーが作れない問題というのがあって(アニメンタリーとかはあるが)、旧アニメスタイル2号第1号の庵野監督インタビュー(P93)で少し触れられているんだけど、アニメというのは絵物語だから、作り事であるという前提を持って観客が見に行くという限界がある。


そもそもおおかみこどもは現実の話ではないんだからドキュメンタリーとは関係ないじゃん、という反論のために少し補足しておくと、これは厳密にドキュメンタリーであるかどうかというよりはスタイルの問題で、フォーマリズムvsリアリズムのような軸で考えたとき、ドキュメンタリーは明確にリアリズムの側に居るわけだけど、アニメで完全にリアリズムを実現しようとするのは(実験アニメなどを除けば)難しい。
絵を作っていく工程というのは、表現したいことを選択的に抽出していく工程でもあるので、ありのままという雰囲気を出すのは普通のやり方では実現できず、表現主義から完全に逃れることはできない。例えば、日本のアニメじゃないけど、ドキュメンタリーアニメ「戦場でワルツを」は、そういったアニメの性質を逆手に取って効果的に実写を入れ込む仕掛けを施していて、素晴らしいアニメ映画ではあるのだけれども、同時にアニメ映画の限界を考えさせられる作品になっている。


閑話休題。おおかみこどもの場合、まるでドキュメンタリーであるかのように、非常に客観的な視点で花と子供たちを捉えていっている(それも13年間にも渡って!)のだけれど、一方で、ドキュメンタリーというにはあまりにも画面に意図が見え過ぎる。パンフレットの山下高明作画監督)インタビューには「すべてのカットに明確な意図が用意されていました」と書かれていて、それはこの作品がとても丁寧に練り込まれたアニメ映画であることの証なんだけど、逆に言えば編集という作為が強く前面に出ている作品だということでもある。つまり、客観的な画面に徹することで生まれるリアリズムによって従来的なアニメから逸脱しつつも、アニメであることは手放していない、複雑な作品でもある。


この、ドキュメンタリーと作り物という二律背反の狭間で、例えば「花が超人的過ぎる」とか「人間が描けていない」という批判は生まれるので、こういった批判は単なる視野狭窄ではなくて、むしろ本質的な話に近い(ドキュメンタリー≠作り物 という話ではなくて、あくまで作り方や見方の指向性の問題として相反しているという話)。この映画を見ているとき、淡々とした中から出てはいけないものや見てはいけないものが漏れ出てきて、それをたまたま見てしまった……というような感覚は薄くて、用意された場面を順繰りに見ているという所からは抜け出さない。作られたお話という場所から飛躍しよう、という体をとれないのは、この映画のスタイルがある程度抱えざるを得ない問題点なんじゃないかと思う。


しかしそれでもなおドキュメンタリーとしての側面を持とうとすることは、問題点を補って余りある良い面も多くて、一つ例を挙げてみると、一般性の問題がある。普通の人がアニメを子供のものとみなしたり端的に幼稚であると考えるのは、上述したような「作り事」であるという事実が見え過ぎるという大きな壁がある。物凄く乱暴な言い方をすると、今までの日本アニメは基本的に壁をハンマーでぶち壊そうという指向でやっているので、その壁が薄いアニメ好きな層以外にリーチしにくいんだけど、おおかみこどもの場合、壁を全部ぶち壊す必要なんてなくて、例えば出窓を作ってあげたり、壁を透明なガラスに差し替えればいいだろう、という方向性で一般層にリーチできている。逆に言えば、完璧に壁を透明にしようとする(完璧なドキュメンタリーを求める)必要もないし、逆にちょっと壁を壊してみること(花のキャラクターに感情移入する見方)もできる。その高いポテンシャルと解釈の自由度が、この映画を大ヒットに導いていくのだと思う。ただ、こういうやり方を実現するには卓越した技量が必要で、それをやり切ってしまう細田守監督はやはり天才か…。