コンテンツ文化史学会2014年第1回例会感想

コンテンツ文化史学会2014年第1回例会「アイドルの現在-リアルからバーチャルまで-」

概要

今年はアイドルをテーマにしたアニメ映画が4本もあって(WUG、アイマスプリティーリズムアイカツ
ラブライブの映画も発表されるほどの状況なので、
さすがにアイドルアニメの基礎検討をしておかないとまずいなあ、と思っていたところに
「アイドルの現在-リアルからバーチャルまで-」というちょうどいい例会があったので
つくばまで聴講しに行って来た。その感想。



聴講しに行った目的

バーチャルアイドルというのは少し不思議な言葉である。


アイドルという言葉は、その語源からしても虚構性の有無が議論の対象となりやすい。
今、ふと見せたアイドルの言動は素の言動だったのか、それとも作りだったのか。


一方、バーチャルという言葉は文字通り虚構である事があからさまである。
議論の余地が無いために虚構であるか否かは問題にならず、
その虚構性を作品内で自己言及することが良いか悪いか、というところに議論が向かいやすい。


共に虚構と密接に繋がりながらも、そこに対する観客のスタンスは全く異なる。
そんな二つの言葉が組み合わさった単語が、バーチャルアイドルという言葉だ。


作品内のファンと繋がるアイドルを視聴者が見るという形式ではなく、
視聴者・プレイヤーとアイドルキャラクターが直接繋がる形式のアニメ・ゲーム作品が当たり前になってきた今、
わざわざバーチャルである事を強調する「バーチャルアイドル」という言葉自体が古いものになりつつある。
そこで、アイドルの一ジャンルもしくはバーチャル作品の一ジャンルという形で完全に取り込まれて消えてしまう前に、
バーチャルアイドルという概念を整理し、その概念がどこへ向かい得るのかを考えたい。



聴講した内容を踏まえた自分用まとめ

井手口先生の報告では、アイドルをコントロールしたいという客の欲望に応えた、コントローラブルなアイドルとして初音ミクが紹介されていた。
コントロールや欲望というと少し語感が悪いが、それは作者による支配から逃れた自由な解釈が許容されるということでもあるから、
多数の「俺の考える初音ミク」が肯定される空間ということでもある。
初音ミクとはこういうキャラクターであって違う解釈は存在しない、みたいに
他者を支配しようという動機で作られているような作品は、少なくとも数としては少数だろう。
(Tell Your Worldがどうなのか、というのはこの議論ではひとまず置いておく)


ただ、自由な解釈が完全に肯定されているかというと恐らくそういうことはない。
バーチャルであるがために物理的制約を乗り越えつつも、
バーチャルであるがために限界があるのではないか。




実在のアイドルであれば、名前と一対一で結びつく肉体なり素の人格なりがある(というように消費者・観客側が考える)ので、
同一の存在として認識するためには名前だけあれば十分だし、名前から想起される記号内容を必ずしもファン同士で共有する必要はない。
月氏の報告内容である、アイドルのパーソナリティや日常をコンテンツとするというのもそういった前提があるから成り立つ。
さらに氏の本『「アイドル」の読み方』から引用すると、

リアリティーショーが多用されるのは、(略)受け手がそれを乗り越えるアイドル自身の葛藤の中にアイドル個々人の「素顔」を見出しやすくするためである。(p.148)

とある。「素顔」を見てみたいという欲求の充足とともに、そういったリアリティショー自体が虚構なのかもしれないと思ったとしても、そういった虚々実々の状況自体すらもアイドルを面白く見るための要因の一つに成り得る。


ところが、バーチャルなキャラクターというのは言葉通り虚構の存在であることが自明である。
山本監督の質疑応答で、アニメというのは実写と違って描いたものしか映されないために(製作者にとって)完全にコントロールされた世界であるという話があったけれども、その裏返しとして、
例えばバーチャルアイドルの「素顔」を描くアニメがあったとしても、それは他と同じく造られたものでしかないという認識から観客が逃れることは、普通の方法ではありえない。
WUGの狙いとして山本監督は、例えごく少数でも地下アイドルでも精一杯推してくれるようなファンがいるような、そういう
熱狂的な思い入れを持つアイドルファンの文化をアニメに持ち込みたい、という趣旨のことを発言されていた。
それは、アニメを見るときにアニメが現実と切断された虚構であること自体には観客が疑問を持たない、ある種成熟した文化が既にアニメの中で確立されているためにそういった熱狂に結びつきにくいというところがあるのかもしれない。
(虚構を指摘・暴露してしまうことについての賛否ではなく、アニメが虚構か現実であるかは論点にならない、ということ)
そういった文化が有るとすれば、その文化を打ち破るために、WUGで行われた「ハイパーリンク」、アニメと現実を混合させようという仕掛けを施すというのは、理に適っているように見える。




閑話休題
WUGのように何らかの仕掛けを施さない場合、
バーチャルなキャラクターにはその存在の根拠となるような素顔が存在しないために、
このキャラクターはこういう特徴を持ったキャラクターなんだという観客側の共通認識がないと成り立たなくなってしまい、
名前だけではキャラクターの記号内容を表す記号表現として不十分になってしまう。
だから例えば初音ミクであれば、藤田咲によるボイスデータであるとか、ツインテールのような外見的特長であるとか、もしくは歌姫のような物語であるとか、
初音ミクだと認識できる名前以外の何らかの特徴が付随している必要がある。


その特徴が何であるかを選択することは消費者・観客側にとってアンコントローラブルな領域であり、
それが何故アンコントローラブルかというと、現在完了形で既にコントロールされているからと考えるのが自然だ。
コントロールといっても誰がどのような形でやっているのかは作品やキャラクター毎にバラバラで、
コントロールしたいと思って作ったわけではない二次創作が勝手にコントロールを始めてしまうこともあるような緩い形の場合も恐らくあるだろう。


ただいずれにせよ、どの記号表現の組み合わせがそのバーチャルキャラクターを表すかは、バーチャルキャラクター本人ではない別の何か・別の誰かが決めている。
意思も素顔も存在しないであろう虚構の存在に、そんなことは決められない(というように消費者・観客側が考える)から。
月氏は(実在の)アイドルの条件としてアイドル自身による名乗りを挙げていたが、バーチャルキャラクターが置かれている環境はそれに対して見事に対照的である。
山本監督が三次元から二次元よりも二次元から三次元のほうが売りやすいと言っていたのも、
二次元キャラクターが先である場合、そこから出てきた三次元アイドルは二次元キャラクターにとってはキャラクターを表す記号のうちの一つでしかなく、
その組み合わせが変化することはあっても、組み合わせがキャラクターを決めるという受容の仕方は変化しないからではないか。




バーチャルキャラクターは
観客に提供される前にキャラクター本人ではない何かによってコントロールされた状態でないと、その同一性を担保できない。
そのために観客がキャラクターの全てを自由に解釈することは出来ないし、自由になった瞬間にそのキャラクターは消滅する。
(コントローラブルという言い方に沿えば、バーチャルキャラクターには消費者・観客によるコントロールが不可能な領域が構造上必ず存在する。)
それが人ではないバーチャルキャラクターの限界、延いては実在とバーチャルのアイドルを区分するものとしてまず存在しており、
その限界が何らかの方法により突破されない限りは、「バーチャルアイドル」とはいいながらもバーチャルとアイドルは等価ではなく、
バーチャルであることが非常に優位なままであり続けるだろう。