2015年公開予定アニメ映画

1月公開

2月公開

3月公開

4月公開

5月公開

6月公開

7月公開

8月公開

9月公開

10月公開

11月公開

12月公開







2015年予定



不明

バケモノの子

この映画の最初のティザーポスターには、「新冒険活劇」という文字が書かれていた。
ポイントは「新」。一体何が「新」しいのか。


この映画は前半と後半で真っ二つに分断されている。
前半、バケモノの世界へと「冒険」することになった九太は、必死に熊徹の真似をしながら修行をする。
しかし、後半で蓮(九太の現実世界での名)はその修行の成果を存分に発揮するわけではない。
不良とのケンカでこそ役に立つが、その後、現実世界での彼の目標は高卒認定試験と設定される。
試験となると、熊徹との修行の日々が役に立つようには思われない。
そこに「冒険活劇」ではない、「新冒険活劇」である所以がある。


バケモノの世界で修行に励む九太は、カラダは成長できても十七太にはなれない。九太は九太のままなのだ。十七歳になった蓮には別の修行が待っている。
多くの十七歳男子にとって、大学受験(もしくは就職)は自分の意思のみではままならない「冒険」となるだろう。
であれば、その年頃の男子に必要なことはお勉強であって、木刀を振り回すことではない。
まさしく修行の旅で九太が熊徹から言われた「机にちょこんと座ってお勉強」こそが必要な修行なのだ。
このことは次のようにも言い換えられる。
冒険する未知の大陸があるわけでもない、活劇をして倒すべき悪役が居るわけでもない。
そんな現代で、木刀を振り回して強くなる「冒険活劇」をすることに意味などあるのだろうか?


この映画が提示している解答はシンプルだ。
それは、「意味なんかテメエで見つけろ」ということ。
とはいえ観客を突き放すだけでは物語にならないので、その具体的な例が九太を通して描かれる。
異世界での修行だけでなく、自意識との戦いだけでなく、
一見無意味としか思えない「冒険」の意味を見出す過程を含めての「新」冒険活劇、なのだ。

冬コミC87

貴サークルは日曜日 東地区 「パ」 ブロック 22aに配置されています。


というわけで
冬コミC87 サークル名「CFL」で、
「2014年アニメ映画全レビュー 」
および、
THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!」 がやろうとしていたことについて考察した本を出します。
よろしくお願いいたします。




3日目(火)東S32ab「前途洋洋だ会」様に委託予定です。

2014年公開予定アニメ映画

1月公開

  • 01/10(金) Wake Up, Girls! 七人のアイドル
  • 01/11(土) ゴールデンタイム
  • 01/25(土) THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!

2月公開

3月公開

4月公開

5月公開

  • 05/10(土) えいが パンパカパンツ バナナン王国の秘宝
  • 05/10(土) れっしゃだいこうしんザ☆ムービー しんかんせんとわくわくでんしゃ大集合
  • 05/17(土) 映画 きかんしゃトーマス キング・オブ・ザ・レイルウェイ トーマスと失われた王冠
  • 05/17(土) 機動戦士ガンダムUC episode7「虹の彼方に」
  • 05/17(土) 伝える 〜沼田友のショートアニメーション〜(二週間限定ロードショー)
  • 05/31(土) 劇場版 ゆうとくんがいく
  • 05/31(土) ロボットガールズZ

6月公開

7月公開

8月公開

9月公開

10月公開

11月公開

12月公開


不明

2015年

コンテンツ文化史学会2014年第1回例会感想

コンテンツ文化史学会2014年第1回例会「アイドルの現在-リアルからバーチャルまで-」

概要

今年はアイドルをテーマにしたアニメ映画が4本もあって(WUG、アイマスプリティーリズムアイカツ
ラブライブの映画も発表されるほどの状況なので、
さすがにアイドルアニメの基礎検討をしておかないとまずいなあ、と思っていたところに
「アイドルの現在-リアルからバーチャルまで-」というちょうどいい例会があったので
つくばまで聴講しに行って来た。その感想。



聴講しに行った目的

バーチャルアイドルというのは少し不思議な言葉である。


アイドルという言葉は、その語源からしても虚構性の有無が議論の対象となりやすい。
今、ふと見せたアイドルの言動は素の言動だったのか、それとも作りだったのか。


一方、バーチャルという言葉は文字通り虚構である事があからさまである。
議論の余地が無いために虚構であるか否かは問題にならず、
その虚構性を作品内で自己言及することが良いか悪いか、というところに議論が向かいやすい。


共に虚構と密接に繋がりながらも、そこに対する観客のスタンスは全く異なる。
そんな二つの言葉が組み合わさった単語が、バーチャルアイドルという言葉だ。


作品内のファンと繋がるアイドルを視聴者が見るという形式ではなく、
視聴者・プレイヤーとアイドルキャラクターが直接繋がる形式のアニメ・ゲーム作品が当たり前になってきた今、
わざわざバーチャルである事を強調する「バーチャルアイドル」という言葉自体が古いものになりつつある。
そこで、アイドルの一ジャンルもしくはバーチャル作品の一ジャンルという形で完全に取り込まれて消えてしまう前に、
バーチャルアイドルという概念を整理し、その概念がどこへ向かい得るのかを考えたい。



聴講した内容を踏まえた自分用まとめ

井手口先生の報告では、アイドルをコントロールしたいという客の欲望に応えた、コントローラブルなアイドルとして初音ミクが紹介されていた。
コントロールや欲望というと少し語感が悪いが、それは作者による支配から逃れた自由な解釈が許容されるということでもあるから、
多数の「俺の考える初音ミク」が肯定される空間ということでもある。
初音ミクとはこういうキャラクターであって違う解釈は存在しない、みたいに
他者を支配しようという動機で作られているような作品は、少なくとも数としては少数だろう。
(Tell Your Worldがどうなのか、というのはこの議論ではひとまず置いておく)


ただ、自由な解釈が完全に肯定されているかというと恐らくそういうことはない。
バーチャルであるがために物理的制約を乗り越えつつも、
バーチャルであるがために限界があるのではないか。




実在のアイドルであれば、名前と一対一で結びつく肉体なり素の人格なりがある(というように消費者・観客側が考える)ので、
同一の存在として認識するためには名前だけあれば十分だし、名前から想起される記号内容を必ずしもファン同士で共有する必要はない。
月氏の報告内容である、アイドルのパーソナリティや日常をコンテンツとするというのもそういった前提があるから成り立つ。
さらに氏の本『「アイドル」の読み方』から引用すると、

リアリティーショーが多用されるのは、(略)受け手がそれを乗り越えるアイドル自身の葛藤の中にアイドル個々人の「素顔」を見出しやすくするためである。(p.148)

とある。「素顔」を見てみたいという欲求の充足とともに、そういったリアリティショー自体が虚構なのかもしれないと思ったとしても、そういった虚々実々の状況自体すらもアイドルを面白く見るための要因の一つに成り得る。


ところが、バーチャルなキャラクターというのは言葉通り虚構の存在であることが自明である。
山本監督の質疑応答で、アニメというのは実写と違って描いたものしか映されないために(製作者にとって)完全にコントロールされた世界であるという話があったけれども、その裏返しとして、
例えばバーチャルアイドルの「素顔」を描くアニメがあったとしても、それは他と同じく造られたものでしかないという認識から観客が逃れることは、普通の方法ではありえない。
WUGの狙いとして山本監督は、例えごく少数でも地下アイドルでも精一杯推してくれるようなファンがいるような、そういう
熱狂的な思い入れを持つアイドルファンの文化をアニメに持ち込みたい、という趣旨のことを発言されていた。
それは、アニメを見るときにアニメが現実と切断された虚構であること自体には観客が疑問を持たない、ある種成熟した文化が既にアニメの中で確立されているためにそういった熱狂に結びつきにくいというところがあるのかもしれない。
(虚構を指摘・暴露してしまうことについての賛否ではなく、アニメが虚構か現実であるかは論点にならない、ということ)
そういった文化が有るとすれば、その文化を打ち破るために、WUGで行われた「ハイパーリンク」、アニメと現実を混合させようという仕掛けを施すというのは、理に適っているように見える。




閑話休題
WUGのように何らかの仕掛けを施さない場合、
バーチャルなキャラクターにはその存在の根拠となるような素顔が存在しないために、
このキャラクターはこういう特徴を持ったキャラクターなんだという観客側の共通認識がないと成り立たなくなってしまい、
名前だけではキャラクターの記号内容を表す記号表現として不十分になってしまう。
だから例えば初音ミクであれば、藤田咲によるボイスデータであるとか、ツインテールのような外見的特長であるとか、もしくは歌姫のような物語であるとか、
初音ミクだと認識できる名前以外の何らかの特徴が付随している必要がある。


その特徴が何であるかを選択することは消費者・観客側にとってアンコントローラブルな領域であり、
それが何故アンコントローラブルかというと、現在完了形で既にコントロールされているからと考えるのが自然だ。
コントロールといっても誰がどのような形でやっているのかは作品やキャラクター毎にバラバラで、
コントロールしたいと思って作ったわけではない二次創作が勝手にコントロールを始めてしまうこともあるような緩い形の場合も恐らくあるだろう。


ただいずれにせよ、どの記号表現の組み合わせがそのバーチャルキャラクターを表すかは、バーチャルキャラクター本人ではない別の何か・別の誰かが決めている。
意思も素顔も存在しないであろう虚構の存在に、そんなことは決められない(というように消費者・観客側が考える)から。
月氏は(実在の)アイドルの条件としてアイドル自身による名乗りを挙げていたが、バーチャルキャラクターが置かれている環境はそれに対して見事に対照的である。
山本監督が三次元から二次元よりも二次元から三次元のほうが売りやすいと言っていたのも、
二次元キャラクターが先である場合、そこから出てきた三次元アイドルは二次元キャラクターにとってはキャラクターを表す記号のうちの一つでしかなく、
その組み合わせが変化することはあっても、組み合わせがキャラクターを決めるという受容の仕方は変化しないからではないか。




バーチャルキャラクターは
観客に提供される前にキャラクター本人ではない何かによってコントロールされた状態でないと、その同一性を担保できない。
そのために観客がキャラクターの全てを自由に解釈することは出来ないし、自由になった瞬間にそのキャラクターは消滅する。
(コントローラブルという言い方に沿えば、バーチャルキャラクターには消費者・観客によるコントロールが不可能な領域が構造上必ず存在する。)
それが人ではないバーチャルキャラクターの限界、延いては実在とバーチャルのアイドルを区分するものとしてまず存在しており、
その限界が何らかの方法により突破されない限りは、「バーチャルアイドル」とはいいながらもバーチャルとアイドルは等価ではなく、
バーチャルであることが非常に優位なままであり続けるだろう。

THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!

微妙にネタバレあり。


アニメ映画を見た後には珍しく、考え込んでいる。おそらくはテレビシリーズで出来なかったこと・やらなかったことをやるであろうから、挫折に対してシビアな見方をしてくる同業者の登場と、アイドルたちとファンとの関係性の話をやるのではないかという予想はしていた。していたのだが、前者はともかく後者についてここまで踏み込んで描いてくるとは予想してなかったのだ。
春香が「後ろの席まで見えるよ」と叫ぶところは(劇中では誰もいないアリーナで誰もいない観客席に向かって叫ぶのだが、その叫びの受け手の中には映画館にいる観客が当然含まれる)、メッセージ的には平凡だけど、構図の反復で誰かと対話するという役回りが春香に付与されることによって観客にきちんと届きやすくなってる。これは感心はしたものの、やろうとしていること自体は予想の範疇ではあった。
しかし、もうひとつの象徴的なシーンである千早の手紙(劇中的には千早の家族宛の手紙ではあるが、観客への手紙というニュアンスも含まれている)のくだりは、あれはもはや単なるメッセージどころか、ポジティブなニュアンスを持った挑発と言ってもいいくらいだ。あのくだりは明快に観客側のレスポンスを求めている。私たちの姿や生き方は観客であるあなたにこの映画で届けた(写真を手紙で送った)。では、あなたはどうなのか?


テレビシリーズもそうだったけれど、このアニメではアイドルの有り様を描き出すような業界モノとしてのリアリティは重視されていない。都合のよさやファンタジーを許容することでアイドル固有の話にはせず、あることに対して頑張る女の子たちの青春ドラマという普遍性を持った話にしている。だからこそ上記のような問いかけが可能になるのだが、しかし劇中で描かれる彼女たちの姿はポジティブでありつつ残酷でもある。自らの気持ちに反することを許そうとはしないのだから。でも、その残酷さこそ若さが見せる輝きそのものだろう。怖いものなんて何もないんだと。
そんなものを逃げ場なく突きつけてくる、まさしく若いスタッフが若い観客に向けて作ったアニメなのだが、そういう潔さはアイマスを楽しむ文脈に適合しにくいようにも思うし、しかし作品の世界観にしっかりと合致した話であるようにも思える。どちらが本当なのか、今も考え込まされてしまっている。




(2014/02/02追記)
くだらない先入観を抜いて見れば、映画自体はシンプルで力強い。プロデューサーが海外へ行ってしまう、というゲームの展開(らしい。僕はアニメ見ただけでゲームやってないので詳しくは知らない)を真面目に考えて話を作れば確かにこうなるだろう。冒頭とラストの飛行機の対比、合宿途中で抜ける真と雪歩(およびその会話)、アイドルへは戻らない律子、千早の手紙と春香のモノローグ(厳密にはモノローグではないが)、その直後のライブとそれを見守るプロデューサー。春香へと注がれる視線が強調される前半と、春香から誰かへと向けられていく視線が強調されていく中盤以降。「自惚れてもいいよね」と言い、他人のデリケートな心の中へ足を踏み入れる春香。良い青春映画だと思う。


問題は、映画がシンプルなら映画の話もシンプルで済むかってことだ。どうやっても混乱する気しかしない。アイマス映画のメッセージって凄くシンプルだし、ポジティブなアイドル曲なんかではよく歌われてそうな内容だと思うんだけど、あの映画はそれを本気でやってしまっているように見える。僕はアイマスファンでもアイドルファンでもないので、アイマスやアイドル(と一括りにすること自体にすでに無理があるのだが)とファンの間で実際に行われているそういったメッセージのやり取りが、双方どこからどこまで本気なのか全然分かんないんだよな。何もかも全部本気だって解釈するのが世の中平和でいいんだけど、そう思えるんだったらアニメファンじゃなくてアイドルファンになってるわけで……。